エッセイ ミニ

 

2023.5.23

好き家電、必要家電

 

みなさんが感謝して止まない家電は何でしょう? 今やありとあらゆる家事が家電によって成り立っています。その中でも最も重宝している、これなしにはやって行けないというものは何でしょう?私はダントツで洗濯機です。これがない世界なんて、悍ましくて。。

もしシーツもカーテンも手洗いとなると、もうなかなか洗わないでしょう。

そもそもこの洗濯機のありがたさを感じたのは高校生の時でした。

 

 

お昼のテレビ番組を見ていると、神田正輝さんのお母様が出演しておられ、司会者に最も助かっている家電について聞かれた際に洗濯機とお答えになられていたのです。これがない時代は手洗いされていた話で最も驚いたのは息子さんがスキーに行って帰って来られたら、スキーウェアを手洗いしたと。もう絶句です。あんなゴワゴワしたものをしゃがんで手洗いした姿を浮かべると気絶しそうでした。洗濯はハンカチや下着くらいは手洗いしてもそんなに苦ではないと思っていたところ、言われてみれば洗濯機がないという事はもう手洗いしたい、しても良いの次元ではなく、否が応でも手洗いしかないわけで、辛くてもするしかないのです。それを思うと洗濯機は革命で、私は毎回洗濯機を使用するたびに洗濯機にありがとうを言うようになりました。他人がこっそり見たらびっくりするでしょうね。でも私はその背後に隠れている、万が一この洗濯機というものがこの世になかったらという世界を同時に見出しているのです。(こんなところ、本当に芸術家だなと自負してます)そんなパラレルワールドないよ、と捨て台詞を落とされればそれでおしまいではありますが、とにかく大切にしたい存在です。そして実はもう一つ。命に関わるクーラー様の存在です。毎年故障した場合の覚悟と共に過ごしております。アトピー持ちの私としては体の中で頻繁に起こる火事に加え、年齢を重ねた故の更年期の影響で別火事もあり、油断なりません。車に乗ってもクーラーが効き始めるまでにぐったりしたりする事もあるくらい私の精神的な部分の支えにもなっています。ただ、クーラについては洗濯機と違ってこちらからも歩み寄りが必要かなと思う部分もあり、体力作りや食生活の見直しで使用の頻度を過多にしないようには努めたい気持ちがあります。洗濯機、クーラー、その存在価値はそれぞれ違います。しかし、いずれにしても私の中ではやはり「存在」で息吹を感じ、観葉植物と変わりありません。

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2023.4.19

イタリアとの縁

 

 

 

私が初めてフィレンツェに長期滞在した時のことです。

運よく素敵な家に恵まれ、私のイタリア生活がスタートしました。

運よく素敵な家とは、まず、人が良かった。ホストとなった若いカップルがとても親切な方々でした。

そして、内装が実に暖かかった。私のお気に入りの緑のシェードも窓についていました。

私の中でイタリアをイメージするのが薄オレンジの壁に緑の長いシェード付き窓。

しかし全部が全部このような建物とは限りません。私はお気に入りの建物に当たってラッキーでした。

木の温もりと緑を感じる台所、タイルの床。どれも一目で好きになりました。

そして台所から庭を眺めると藤の花が連なっているのが一望出来、最高の食事を約束されていたのです。

実は私の大家の物件は2階で下の階はこの建物の大家が住んでいて、実際は庭には出れないわけですが、それでも視界に入る庭とその美しさにうっとりしたのです。

私にとって環境はとても大事でそこで大部分、自分のやる気が定まってしまうのです。

そして、肝心の、私の部屋といえば、、、?もちろん広くて素敵なお部屋でした。

しかしこの”運よく”はまだ続いていたのです。到着した時どころか、それからしばらく気にも止めていなかったのですが、この時私の部屋のベッド、頭側の壁に貼られていたポスターが後に(3~4年後)私に多大な影響を与えるカンディンスキーのSky Blue(英語表記タイトルの場合)という作品だったのです。

これに気づいたのが到着してからどれくらい経ってからか覚えていないのですが、もちろんこの頃は美術史に関する知識も殆どなく、作者についても何もわかっていなかったので予備知識なしの感想でしたが、いつの間にかとても心を奪われていました。その後ローマのアカデミアに入学し、美術の勉強を進める上で歴史上の美術家としてのカンディンスキーを知るわけです。

ここで私の作品の根幹となった3人の作家、レオナルド、カンディンスキー、ピカソの3本柱が完成したわけです。中でもカンディンスキーのクオリティーの美学は私のバイブルとなりました。

イタリアを介して知ったロシア人作家、不思議な縁です。

 

Biography

 

 

 

2023.1.1.

手袋

 

 

元日の朝はウォーキングと日の出時刻を合わせたい気持ちがあったので6時に起床、手袋は片っぽだけで出発。(前日落としたので)

しばらく歩くと手袋をはめている右手より、手袋がない袖に引っ込めたグーの左手の方が暖かいのに気づきました。

そう、毎日手袋をしていても指先が寒いなと感じていた。そして手袋はどれも同じと思ってた事、こんなものだと指が温もるまで我慢して歩いていた事を思い出しました。

 

実は3年前、右手の中指が曲がりにくい、痛いと言った症状が出て、病院に行くと「更年期障害の一部」と判断されました。すぐ治るとも言われましたが一向に変わらないまま。年に一度くらいなんともない状態になりますが、大抵は強いグーも出来なければ指パッチンは不可能です。しかし私の仕事はこの指あってのもの。この手で一体何枚の作品を完成させてきたのかと思えば、感謝せずにはいられない程の功績です。去年くらいから一層その思いは強くなり、夜寝る前にありがとう、ごめんねと語りかけたりしていました。

そしてハッとしました。手袋はどれでも同じではない。大切なものを包みたいのに何でもいいはない。その指を大切にするなら、感謝を伝えるならもっと気持ちを込めなければ伝わらないと そう頭に浮かび、それを知らせる為に昨日手袋を落とさせたのではないかと思いました。落とし物をしたという自己嫌悪からの思い込みではなく、間違いなく私に対する厄落としだったと実感しました。

この指が治るかどうかと言うよりも、感謝を込めて、敬意を表して、暖かい手袋が相応しい。

良い年の始まりを迎えることが出来ました。本当に嬉しい。

 

お陰様でありがとうの1年が始まりました。

 

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2022.12.4

 

究極の目標

 

私は美術を勉強中、自分の描くものに抽象へのこだわりはありませんでした。

しかし、3年生になる頃、急に抽象画を描いていました。もう今ではその瞬間、何が起こったのかとか詳しくは説明出来ないのですが、薄々は自分でも気づいてはいました。いつかそうなるだろうと。ただ、初めから抽象に挑む気がなかった。自分なりの納得をしてからにしようとのんびりしていたのです。

思いもよらなかったのはその後すぐに自分自身に疑いを抱くようになったことです。それはあまりにも抽象にのめり込み過ぎ、日常の全てに於いて物事の裏側まで思索しようとし、基本や基軸に歪みを生み出しているのではないかという恐れに対する疑問、生活面までもが抽象と化していた事でした。

 

深く考えたくないのに考えてしまう。フワッと終わらせたいのに、でも待てよ、、と何か読み取ろうと余計な詮索をしたくなる。これでかなり疲れました。そして結果的に間違いに気づきます。

要するに答えは単純。いい事には疲れなど、ネガティブ要素は入って来ない。

 

そして生活そのものの捉え方をあくまで現実的に、制作の行為を無限の抽象的にと意識するようになりました。今から考えればそれは本来の自分に戻っただけの事でしたが。

 

そして10年以上も経過し、私の抽象理念というものが形を表すようになりました。抽象と量子力学に接点を見出したのです。ややこしいですが、あくまで抽象な世界が現実の量子に結びついたのです。

専門的な指摘はご遠慮ください。私はその世界について素人の素人。しかし、これまで自分が疑問に思っていたことの解決策としてここに至ったのです。難しい計算や考察をこなしてしまう研究者達も想像力というものがなければその成果には届かないと言いますが、想像とは疑問であり掴めない雲をも引き寄せるミラクルパワーと思います。

 

ここから話は一気に飛びますが、昔から究極の目標を持っていました。それは盲目者に感じてもらえる展覧会。猫に認められる展覧会です。この糸口を量子力学に見出しました。量子の世界は全ての根源を量子に見出しますが、その効果で人が何かを感じる根源になっているとしたら、作品にその波を発生させる事が出来ていれば波長だけで十分に楽しんだり、いい気分を味わう事ができるはずです。、、、今日はここまで。なーんとなくアートを感じてください。

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2022.7.19

出会い

 

OL時代、英語教室の営業をやった事があります。テレアポセールスという流れでいろんな人に会いました。その中で今でも心に残っている人がいます。

その方は私が思うに人の頼みを断れないタイプの方で、私の営業に付き合ってくれた感満載でお会いしました。

私としては付合い営業なので成果にはならないけれど肩の力を抜いた形で接する事が出来ましたし、こんな言い方失礼ですが、オフィスにいるのが嫌だったのでいい時間潰しにもなるなって気を抜いていました。それなのにあることを言い出したので私は何となくその事が忘れられなくなりました。それはセールスも終盤、もう説明オワリといった場面で、「もしかして英語話せます?」と唐突に聞いてこられたのです。

私は意外な質問に一瞬たじろぎましたが、「あぁ、少し。。」と答えると、「パソコンのキーボードのようにこれを押したらコレ!っていうキーがあって、そうじゃいかと思ったんです。」と答えられました。どこの場面がキーだったのか話してくれなかったのでよくわかりませんが、それから会話にはキーがあるなと実感するようになりました。本人も気づかない僅かなところでその人の何かがポン!と現れる場面がある。人との出会いがもたらすものって偉大だなと個人的に感じました。

 

で、今はデジタル時代。販売から出会いまでこの中で完結。出会いがないなー。そう思います? 私はそうも思うし、そう思わない部分もあり、また、どちらも同じとさえ思ってしまう。

 

私はTWInstaもやってます。しかし、まだまだ野生的に関わっているだけなのでフォローするかどうかとか、どういう場面でどうするのが礼儀かとかルールに則るのもままなりません。まあ自由でいいと思うのですが、深く考えたくないから適当に過ごしてしまう。だけど潔癖症の私はこの自分がした一方的な発信に対しても断捨離をせずにはいられないところがあって、過去投稿を削除したりするのです。すると、知らない内にメッセージをくれていた事に気づき慌てるわけです。で今頃と思いながらも返信すると、なんとそれでも相手はそのメッセージにいいねをくれるわけで。許してくれるんですよ。現代の出会いですね。

社会には流れがありますが、私達が人間である以上、本質的なものは変わらないはずです。社会の中で主流が移動しているだけですね。

未来はどんな出会いが主流になるのでしょうね?

 

2022.7.2  白くま

白くまって打つの、「白くま」にするか「しろくま」にするか「シロクマ」にするかって少し悩みました。でもこれは私のミニエッセイで文字に特化したアートページなので大人らしく漢字を入れました。ただ、行間とか段落とか下書きの時点とウェブ上ではどうしても勝手に誤差が出る様ですのでこちらは無視してください。

文章を書く人はこういうトコロかなり気になるとは思いますが、楽天的に行きましょう。

さて、今回のタイトル白くま 理由はご想像の通り、旭山動物園に生まれたピリカちゃんの赤ちゃんが可愛過ぎだから。

本当に本当に本当に可愛くてどうしようもない。動画が上がっているとすぐ見入ってしまうし、落ち込んでいても機嫌が悪くても暑くてもいつもいつも私を励ましてくれます。

人類に必要な存在だなと。まさに地上の天使ちゃんです。

私は動物が好きなのでこの天使だけでなくあらゆる動物の行動が私を癒してくれます。

ところでみなさんにはそんな存在ありますか?まさかそれが奥さん、夫または恋人ですという人はいないと思うのですが。というのもその人を癒すものはそういった身近な存在ではない方がいいような気がするからです。私は病気かもしれませんが、「依存」という事にピン!とフラグが反応しそのエリアに近づかないようにしています。世の中で恋愛がいい事として捉えられている様ですが、確かにいいことと思いますが、恋愛は癒しの存在とは別物であるという認識がないと大変な事になると実体験から理解しています。要するに癒しとは、言わば逃げ場でこの場所をなくしては恋愛も何も成り立たないわけで、。

辛い仕事の合間、喧嘩の後、そんな場所があればいつでも自分を冷却することができる。そして落ち着きを取り戻して導き出す答えは冷静な道のりを示してくれる。

動物の何がいいのか?それはおそらく会話なしの表現の世界があるからと思っています。私は動物がそうなのでこんな理由ですが、とにかくそんな何かを持って欲しい。持つ事おすすめです。決して抱え込まずにあなたの世界を存分に広げてくれる世界がその先にあるはずだからそのレンズを通して知るべきです。

芸術には色んな種類、分野がありますが、その中でも絵画を選んだ私はこういった私の一面にも理由があるのです。

いつでも自由に関わっていつでも素でいられる存在。

もちろん絵と関わっている時間が一番の癒しタイムです。心で感じる会話と動物とじゃれ合う時間があれば無敵ですね。

今は動画で我慢。いつかどなたかをお迎えしたい。、、と言いながら結構癒しタイムの妄想上級生。BBC Soudsで気分を盛り上げながら今日の投稿をしました。

ここから未来を覗いてみてください。

Small Works Show New Years 2022

2022.3.13 ブレックファースト

昔イギリスに滞在していた時の話です。ある朝、台所で朝食を摂っていると、ランドレディーにオートミールを食べるかどうか聞かれました。当時の私はもちろんオートミールなど知りません。それでどんなのか聞くと、冬によく食べられるもので、、、今度作ってあげるわと言ってくれました。私はこの全く想像もつかない食べ物に別段興味もなかったのでその言葉にはそんなに思い入れはありませんでした。ただ、この食べ物についてそれから度々何なのかということで友人との間で話した事がありましたが、誰も私の納得の行く返答をしてくれた人はいませんでした。知らない食べ物に対して納得の行くも行かないもないと言われそうですが、私としてはあんなに見かけがシリアルに似ているのだからシリアルをふやかしたものとか、自分でカスタマイズして食べるシリアルとか、、、。でもとても違う答えだったので私はそれ以上興味も湧かなければ食べたい気持ちにもなれなかったのでその後このオートミールに関してはその存在すら忘れていました。私にいつか作ってくれると言っていたランドレディーもそれから忘れてしまったのでしょう。作ってくれる事はありませんでした。私も興味なかったせいでその日以来すっかり忘れてしまったのです。こうやってオートミールとの出会いは逃されたのです。

 

それから何年経ったのでしょう?随分の随分です。思わぬ時にオートミールと再会しました。

 

世の中には様々な食べ物があって、普段はただ好き嫌いでその日食べたい物が決まると思うのですが、私の場合は何かわからないけれど足りない食感を求めることがあります。それが海外に滞在している時は大体、煎餅系の食感不足だったのですが、それと同じくして求めるものがシリアルです。

 

これがこないだ来まして、で今回はナッツやドライフルーツ入りシリアルを非常に欲し、しかもそれをチョコでコーティングしてボンボンにしようかと思いつきスーパーへ急いだのです。

売り場に辿り着くといつもの袋を見つけたのですが、今日は定価で売られているなとわかると、なぜかこれが欲しくて行ったのに躊躇してしまうという事態に。しかしその数秒後、その隣に陳列されていた"オーガニックオートミール"と書かれた袋に目が行き、迷わずそれを手にとったわけです。値段にしてその前に躊躇していたシリアルより高く、しかもチョコでまとめてジャンキー仕上げを予想していたのがオーガニックな食品に一瞬で心変わり。私って相変わらずだなと自分で自分を他人のように見つめてしまいました。

即買いです。

 

翌朝が待ち遠しく、色んなレシピを考えました。丁度いい具合にピスタチオもくるみも家にあったのでそれを入れてシナモン味にしよう!とかオレンジで(一度も作ったことないくせに)アレンジレシピも考案。ワクワクな夜を過ごしました。

 

はりきりすぎた結果初オートミールは少し残念なお味になってしまいましたが、それから毎日あれこれ手を変え、品を変え、自分好みのオートミールを3,4日で確立する事が出来ました。今の私に誰かがオートミールって何?と聞いてきたら?さて、 まじで難しい。非常に好みの分かれる終着駅しかない食品ですので簡単に「カスタマイズなしでは味気ないシリアル粥」といったところでしょうか?

例えば林檎を加える時、加熱したものを加えたこともありますが、私は生のままのリンゴと一緒に食べる方が好きです。また、加える果物そのものとの相性も非常に複雑でこれは合うけれど、まさかのこれはちょっと、、などまさに人それぞれの好みによって好き嫌いが決まってしまうようなとてもデリケートな食材です。甘さも自分で調節しないとですしね。日本のご飯といったポジションかな?

 

本題ですが、私はオートミールが好きでした。あの時の出会いから今になって気づいた好きという気持ち。でももしかしたらあの時作ってくれる人の出方に寄っては嫌いになっていたかもしれない、今回、自分で買って、自分で納得するまで何度も思考を繰り返したから辿り着けたのかも知れない。とにかく今の私はオートミールに夢中。「幸せの食材」と思っています。これを食べると幸せな気分になれるのです。本当に。その日依頼、毎朝オートミールを食べています。

今の私でなければ出会えなかったもの、かけがえのないこの瞬間、何だか尊く思えます。

 

 

2022.3.9 -THANK YOU- 

今年初の投稿が3月なんて、やはり私、何かするのに、エンジンかかるまで時間かかるタイプ。何か納得するまで、状況が整うまで行動したくないのです。

 

もっと若い頃はそれでも突発的に色々やってきたけど、最近それらは経験となっただけでいい結果はもたらさなかったと思っています。今はとにかく衝動的になるのを避け、エネルギー温存というか、野生、動物的に生きています。必要な時に何でも対応出来るように。んー猫。ネコ生活です。人生のパートナーもまだ見つからないけれど、こんなにのんびりしています。それを思うと、周りのみんなはしっかり計画的に生きてるな、しっかりしてる。私はぼやぼやしてる。なぜかな?芸術家だからかな?どうしてかな?を繰り返すばかりです。

 

前置きが長くなりましたが、実は年始早々、意外な意見を耳にしました。本来ならその時に投稿したかったのですが、今やっと書き出します。それはラジオDJが発した言葉なのですが、初詣について視聴者からのある質問に対して「なんか、神様にみんなあれこれお願いして、どいつもこいつも欲深いなーと思って、なんか自分もお願いをする事が嫌になって初詣に関心が欠くなった。」と。これに関しては私もずーっと納得行かない点がいくつかありまして、共感した次第です。

 

まず、10-20代頃まではとにかくお願い!という事をしまくっていました。本当に本当に手を合わせる=お願い! くらい。とにかくお願い三昧でした。手を合わせるのはお墓参りでもしますから、お墓に行ってもやはりご先祖様に「お願い」をしていたのです。そして30代、少しずつ神様にはお願いするものではなく、お礼、感謝を伝えることという知識が入ってくるようになり、新たな考えが私の中に入って来ました。それからは自分のやりたい事を持ってこれをやりますというお参りになりましたが、それでもやはり、自分の希望と願望の間でモヤモヤしていました。

 

参拝の仕方も人によっては神様に素直な欲求をお願いをして叶えてくれる神社を大切にすればいいという人もいれば、参拝はひたすら感謝を伝えるのみという人もいます。もちろん正解というものはないのですから自分で導き出すしかありません。そして今年遂に、この意見を耳にしたのです。私の受け取りはと言うと、「本当にそうだ」です。

 

自分の行為というものは自分で見れないので他人を見て知るしか方法はない。他人がしている事を正しいと思えるかどうか?自分のモラルの居場所によって理解するしかないのです。私はこれまで自分の願いや神頼みが参拝に寄って叶った事がありません。叶った時はとにかく真剣に向き合っていた。だからその時に参拝していたとしても記憶にないのです。必死という事ですね。だから余裕のある時は覚えのない成功に感謝すべくお礼を伝えるのです。

 

あそこにお願いに行こうとかこうすれば正解だからと筋道を立ててする行動は余裕というものがあって出来ることであってその後の継続も考慮しなければいけないですね。自分が自分の信念を持って願望成就に立ち向かっているか?それがあれば参拝ではなく、どこに居ても感謝することは出来ます。実際にそういう場所に行けば本当に凄く浄化された気分になるし、心の健康は満たされるけれど、私の場合はこのDJの方の発言に(本来のご本人の意思はわかりませんが)納得が行ったのです。お願い事があるから今年も初詣に行こう!とかではなくもう忘れてしまった全ての幸運に感謝を伝える事を忘れずにいようと思い出すこと。

きっと誰でも1コはありますよね?あっ!もうダメだ!とか あ~〇〇になっていればいいのになーと思った次の瞬間に救われたとか、問題回避されていたとか。神様お願いという枕詞なしに何気に願う本心に対する幸運。何か形があるわけではなく、透明で、光るものの存在がそういう気持ちの届く所にあるのではないでしょうか?。。。そして私は形のないものを見えやすいように形にして表す抽象画というものを描いているのです。見えない存在も見える形も両方大切にしてもらいたいです。

*****

 私結構面倒くさがり屋でして、出来れば手のかからない部屋作りを目標に日々格闘しています。

ですので衣替えや掃除についてもできる限り手数を減らしたいのでスタイリングと清潔感の間にミニマムを入れ込んで(こんな説明余計にわからないですよね)

簡素な居場所をキープしています。

で、今年の秋。

説明した通り、なるだけ手数を少なくが原則なのでカーペットを敷いたり、ラグを用意したり等、ましてやそれらを買うなどありえませんでした。しかし、今の現状としてはどうしてもカーペットがある方が落ち着く。制作に専念しやすい等それなりの効果が予測出来たので、行き場のないカーペットを出して来て、

わざわざテーブルを持ち上げ、作品を移動させ、敷いたのです。

恐らくこんな作業始めてと言っても過言ではない。このカーペットは私が留守にしている間に母親が良かれと思って買ったもので夏に我慢出来なくなり押し入れに仕舞い込んだものでした。

とにかく、大仕事をしました。

話は飛びますが、どうして私がこんなにミニマムな生活を好むのかと言うと、

私がまあまあの神経質だからです。

何よりも掃除のしやすい部屋でないとまず納得出来ないからです。さて、カーペットを敷いたはいいが、

問題が発生しました。

部屋の奥に洗面台があり、そこを行き来するのにこれまではフローリングであった為スリッパでそのままあっちへ行ったりこっちへきたり、何の問題もなかったのですが、このカーペットはを敷いた事により厄介な事態に陥ったのです。それは間取りからしてここにしか敷けないという場所に敷かれたカーペットがある為、フローリング→カーペット→洗面台という経路になってしまい、神経質な私はカーペットの上はスリッパで上がれないのでカーペットの上を歩く時はスリッパを手に持ち、カーペットの端まで行くとまたスリッパを置いて履いて洗面台というなんとも面倒くさい、この上なく面倒くさい部屋となってしまったのです。

あ〜スリッパもう1個欲しい!と買うことももちろん考えました。しかし最近お気に入りのスリッパもそう簡単には見つからないし、それにすぐダメになるし。。。で考えついたのがスリッパを作る!という事でした。

実に私らしいアイデアです。世の中はコロナ禍で時間を持て余し豪華な料理やパンにケーキを作る人はいてもまさかスリッパ作ろうなどと考えつく人などいないでしょう。私はやはりどうにかしてるのです。しかも私の頭の中では10分くらいで出来る見積もり。もう終わってます。

とにかく、思いついてしまったし、雨だったので制作出来そうにないので実行に移す事にしました。まあ、開始から10分も経てば後悔の嵐ですが、たかが3m程を歩くだけのスリッパ。買うよりボロボロでもあるだけ役に立つものをと食らいつきました。

こういう事をするから頸椎ヘルニアとか再発するのですよ。私は馬鹿みたいにすぐ夢中になるし、生まれて初めて作るスリッパが見目麗しいとしたら世の中にスリッパ屋さんは要らないワケで。取りあえず途方に暮れ、苦しみながら1足完成。しかし履き心地も見た目の左右非対称とか

もう頭の中はペリーヌ物語しかありません。(私の記憶に間違いがなければ、)ペリーヌは確か13歳くらいでしたが、親元を離れ。馬車を引き、旅をして、目的地で仕事をし、馬車暮らし。お供のロバと犬と生活をしていました。川で魚をとり、草で靴を編むペリーヌは今考えれば到底子供とは思えない。

靴底を編むシーンが私の頭でヘビーローテーション。

お風呂の時間になっても、お風呂から上がっても引き続きスリッパを作り続けてしまいました。結局、1日では埒があかず、2日目の朝までかかって作っては作り直しの末、なんとか履けるものが完成しました。もう全身筋肉痛です。最近毎日あげていたTWの投稿も出来ませんでした。ペリーヌ。現代人はキャンピングカーで自給自足のような生活を楽しみ、お友はネコ 原点ココね。

 

***** 

生まれた家の玄関には大きな肉桂(シナモンの親戚みたいな木)の木がありました。

特に何も感じていませんでしたが、大人になると、シナモンが好きと知り、シナモントーストを好んで朝食に食べるようになりました。

人は勝手に生まれてきて、勝手に死んで行くと思われがちですが、私はそうは思いません。このように本人とゆかりのあるものが側にあったり。

だから最近根本的なトコロ、生まれた時の自分に焦点を充てるようにしています。

どうするか?それはじっくり向き合う。ただそれだけなんですけれど。

実家のある地域は私の好みではない。両親とも特別仲がいいわけではない。しかし私はここからどうしても離れられない。

どんなに遠くへ行っても必ず帰って来てしまう。こんな自分の意味を知りたいのです。

もうタイムリミットを意識するような年齢になったから余計かも知れませんが、納得行くまで目に見えない「それ」を見つめていたいのです。

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*****

今から20年くらい前でしょうか? 

始めてロトやってみました。

休憩時間に友達に誘われて¥200だし、手軽だし、道すがらだったから。

で2,3回目くらいでしょうか?1人でそつなくこなせるようになりはっと気づいたら1回に¥1200程賭けていました。

支払いの時に はっと我に帰りびっくりしましたがそのまま購入。

結果10万円程当たりました。

無意識でした。

たまにこのような棚ぼたな幸運に恵まれます。

こないだ、気づいたら派遣辞めてました。

 

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*****

私はゆで卵、塩なしで食べれます。何も味付けしないで無理もしないで食べれるのです。

味の濃いものは苦手。そんな私が大好きなアイスのフレーバーはチョコチップバニラ !

ハーゲンダッツ贔屓の私は昔よくショップでもスーパーでも好んで買っていた。なのに、!なのに! 消えた!

チョコチップバニラが消えたのです。私は世間ズレしているのでしょうか?あんなにマッチしているアイスの完全版が絶版です。

何の理由もなくそのフレーバーがなくなる事はないはず。恐らく人気がなかったとしか考えられない。

そしてふと思うのです。私はやはり世間ズレしている?

あんなに素晴らしいものは他にないと信じていたのに無くなるのですから。

そしてチョコチップがなくなった事に対して不満を漏らす人にも出会ったことがない!

それどころか5,6年前アイスのフレーバーでチョコチップバニラが1番嫌い!という人に出会いました。

もう信じられない事態でした。私はクッキアンドクリームがダメです。

ちょっと言い返したい気分になりました。

そう。人は環境や経験によって嗜好が違う。同じ事が日常のそこここにある。

クラッシックの好きな人、ロックの好きな人、。。。

そんな間をぬって私がいつも思う事は静かな存在。

美術は大きく平面と立体に分けられるが、中でも平面はおとなしい。

静かな存在です。これが私の興味を惹いて止まない。

静かに伝える、聞きたい人にだけ語りかける、じっと見つめる、邪魔しない。

私にとっては理想でしかありません。だからこのツールを使って自分の発信したい事を発信するのです。

強いるわけでもなく、呼び止めるわけでもない。必要な時だけ振り向ける薬局みたいに立ち尽くしたい。

それぞれの処方箋を渡したらその先は一緒になるかその場だけか。

何もかも自由です。

世に存在する芸術には今が映し出されているのです。

 

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*****

気配とか予感とか計算で導き出されない状態が地球では存在する。

それが普段の生活の何パーセントを占めているのかは全く想像にも及ばないが 間違いなく生活に含まれている。

調子が良かったり、何かの波長と同調していれば割合が高くなるのか?ただ、それなしでは生活が成り立たないとも思える。

まどろっこしくなったが、今日、ある些細な体験をした。

ようやく波に乗って来た音楽レッスンに行くのに乗り換えた電車で考え事をしていたら降りる予定の1つ手前の駅で降りてしまった。

降りた瞬間にあ、と気づいたかも知れない。でもさっとまた違う車両に乗り込む切り替えも出来なかった。

時間に余裕があったから次のに乗っても全く問題はない。そこで次の電車を待とうとした。でもふと思った 私は冒険が出来ない。

こういう時にじゃあここから1駅歩こう!とか歩ける事はわかっていてもやった事がない事に対して自信が持てない。

しばしもじもじしたが、今日の私は違う。よし!冒険しよう!と心に決めた。

やっぱり、やめよかな、、とか改札まで2回くらい思ったがいや、今日は絶対行く!と決めて外へ出た。

まあ、大した事ないのですよ。何の苦もなく歩ける距離。でも私はこんな人。端からは何でもガンガン行く人とみんな信じているが。

はい、ある分野についてはそうかも知れませんが、殆ど内向的です。

で、今日は逆にちょっとお散歩出来て、現地にはとっても良い時間にピッタリ着いてグッドでした。

レッスンの他に全ての用事を済ませてさあ帰ろと思ったら乗った電車が途中駅で停車、人身事故により、、、の事態に。

早速バスに切り替えようとするもやはりもしかして案が浮かび再び電車に乗り込む私。しかしあと1時間は止まっているとわかると地上へ出てバスへと乗り換えました。

往路の自らの下車と復路の強制的な下車。私の中の何かのセンサーが朝から今日という日を予告していたような気がします。

全く関係ないだろうとか見過ごしてしまいそうな出来事ではあるけれど私は”予感”と”予習”と”復習”を感じた1日だったのです。

自分が今何とアクセスしているか、それは自分以外の誰にもわからない。各々がそれを感じ取って紡ぎ取るという事が人生との会話と私は思う。

だから何か大きな事を決める時は必ず太陽に、宇宙に問いかけるようにしているのです。

あ、急に壮大なスケールの話に!なりました。

いつも石橋を叩き割っている。という話でした。

ある1日の断片より。

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***** 

去年ホーキングの本を予約し、今年の3月手に入れました。

私は物理は嫌い、科学は好きの適当な位置ですが、宇宙への興味は尽きません。

画家でなかったら、天文学者か、ファッションモデルになりたかった。 

ん〜、あまりにも全てがかけ離れていてどうにも理解し難いかと思われますが、本心です。

お勉強しなかったから天文学者→無理。背が高くないからファッションモデル→無理。でした。

本は実は滅多に読む事がない私。理由はその間ずっとじっとしていなければならないから。

いつも何かとやる事に追われているので際限なく本を読めるというのはある意味夢の世界です。

ですので読めるのは電車に乗っている間とか、家事のちょっとした隙間とかごくわずかなので7月になってもまだ

読み終わっていません。

でも、

読む度に勇気を与えられます。やっぱり宇宙にはロマンがあり、謎に答えてくれるホーキングには感謝で一杯です。

あ、そうそう、やっぱりね とか そうだ とか励まされます。

そのホーキングが本の中でアピールしているのが「私はガリレオの没後100年に生まれた」という事。

まさに何たる一致ですね。きっと間違いなく生まれ変わりで、自分の追求を生を繰り返しながら深めて行ったのでしょう。

こんな人類の宝がこの星の元、同時代にいたという奇跡が愛おしい。

接点は全くなくとも、会いたかったと思える存在ですね。

こんな世界中の偉人の死を耳にする度に私は自分がこんな人達に会えるチャンスがある事夢見てしまいます。

 

ちょっと夢が大き過ぎるかも知れませんが、作家である以上、是非ご一緒したいと憧れる作家がいるのです。

もちろん1人ではなく数人いますが、 

その内の1人(1組)が

クリスト、ジーン-クロウド夫妻

8歳くらいの時だったかな?お二人の作品を知ったのは。子供だから何が何だかわからずそれが表現出来なかったけれど、

釘付けになりました。そして大人になってから芸術と呼ぶと知りました。

ジーンは数年前に亡くなられ、その後はクリストがお一人で作品を発表されていましたが、今年訃報が流れ、肩を落としました。

もちろん、どんなに頑張ったって、一緒にコラボなんてありえないのですが、憧れるくらい偉大な夢を抱いても良いでしょう。

現地時間と日本では時差があるのでこうなってしまったのですが、お亡くなりになられたのは私の誕生日でした。

憧れの人と自分との接点がこんな形で終了するとは夢にも思っていませんでした。

今でも思い出すだけで涙が出ます。

 

会えなくても愛おしい。

そして思う事は生きていて、こんな素晴らしい人達の存在を知れただけでも幸せと。

憧れる人や尊敬する人は存在するだけで人の勇気になれると実感するのです。 

 まさに希望の星です。

 

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私、ブラックベリー狂なんです。

でも、

日本で食べた事ないんです。

 

これは問題。これでも狂を付けるくらい好きと断言して良いのだろうか???

私はイギリスに留学した経験があるのですが、当時は子供すぎて自然とか土地の生活習慣に目をやる事は一切なく、

表向きの名物とか、習慣だけを取得して帰国しました。

そこから数年後、友人と一緒にイギリスを訪れると、本来のイギリスに対面。

私達の行ったイギリス西部では自然と野生と人工が上手い具合に混じり合った土地で(イギリス全土に言えるかも知れませんが、)

散歩をすると、道すがら、永遠にブラックベリーがなっているではありませんか!

始めて見た時はえ?これ本物のブラックベリー?偽物?と怪しみましたが、正真正銘。

普通にお店で売れるような大きさ的にも味的にも完璧なものが両脇にずーっとなっていたのです。

天国ですね。

こんなのもいで食べてももちろん食べきれないし、あり過ぎで採ってる人も見かけない。みんな当たり前のようにこの天国と共存。

こんな光景を見たものですから輸入、冷凍品にはなかなか手が出ないのです。

あの時の景色が私の理想を一気に高く押し上げてしまったのです。

で毎年夏になるとあの、大きい実の麗しいブラックベリーが食べたくなるわけです。

ブラックベリーはこのまま ぱくっ! といくのが最高で、イチゴのようにアイスやジャム加工したらガックと味が落ちます。(私の感覚)

(イチゴはその点においても優等生で敵無しなのですが。)

もちろん私はいちごも大好きでいつまででも食べ続けれる自信があるのですが、今はブラックベリーの話なので、

で、

思う存分食べたい夢を叶えるべく来年は植えようかと思います。

やっと決心しました。

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ドアチェーンをかけると雷が鳴り出した。

あ、この雷は受け入れられる。優しい。

自然は恐ろしくも優しくもある。今日のゴロゴロは優しく感じたのです。

これから雨の時間が荒れた心の荒野をなだめてくれる予感がしました。

ところで、

私には心の奥にまだ見て見ぬ振りをしたままの場所がある。それは北欧一帯。ちょっとだけデンマークに足を踏み入れたことはあるけれど、

その他の地域は全く知りません。

発端は、

その時の状況を覚えていないのですが、北欧に暮らす人のブログに出会って、それからはもう 北欧フリーク。

おそらく現地に行く機会なんかないだろうけど、心奪われてしまい、毎日このブログを見てしまいます。

紹介されている町並みや自然の景色が最高で、ネコも登場して、私の夢宝物箱のような存在になっています。

 

このブログではFikaがよく出て来ます。北欧ティータイムです。

それを見る度にほっとして、安心。やわらかい気持ちになります。

荒れた心も癒してくれます。現実的には厳しい自然の北欧がくれる癒しは今日私が感じたこの雷の優しさと似ているかも。

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作家が昇進するには数あるコンペに挑戦するしかありません。だから、私も定期的に応募を試みているわけですが、、、

なかなか。

運命ではありますが、残念な結果だけならまだしも駄目出ししてくる人もいたりして、決して楽しい挑戦ではありません。

特に私は自分のコンセプトやインスピレーションを他人に伝える事がとてもニガテで書くのもとにかく時間がかかる。

 

昇進しなければならないのか?→はい。新しい出会いが次なる仕事と結びつく可能性が出ます。

ところで、

世間では今、在宅というものが日常となりつつありますが、みなさん苦戦されているようですね。そして、

そう、それこそが私達作家の仕事なのです。人にもよりますが、私みたいな典型的な即興詩人は毎日の計画がない所から業務を成り立たせなければならない。

自由の中から成果を導き出さねばならないのです。

朝起きるのも自由ではありません。目覚ましをかけて、ちゃんと朝食を摂って、作品と向き合い、戦いが始まります。

何をどうしたら正解か?縛りがない分どうしようもなくなる事自然です。間食もやろうと思えばいつでもいつまででも出来る。

人がルールに添った生活やリーダーを求めるのも当然の成り行きだなとつくづく感じます。

もし、この作業を ある日突然作家でない人が始めるとしたら、

それはもう、やるせない。ただストレスの塊です。

私はまだヒラなので月〜金は派遣社員。土日祝限定作家です。だから最初はキーっと狂っていました。

まず「切り替え」というハードルが越せなくて、、、

なんせ、この土日祝に制作だけが出来る訳ではなく、この期間中に掃除洗濯買物料理弁当献立をこなさなければならないのですから。

ちなみに私は中の上くらいの潔癖性。

 

手抜き出来る掃除も少ない。

最近の解決法は土日を期待せず(祝日はボーナス )「1日捨てる!」事。

悲しいですが、制作に集中出来るのはいずれかの1日のみ。

また、その2日間のいずれかに何か用事がある場合、時間制限があるのでこれもまた制作出来ません。

稀に出来る場合もありますが、それは年に1度あるかどうかというくらい希薄です。とりあえず、時間割がかなり重要な要になります。

こうなってくると私の昇進意欲はどんどん膨れ上がります。

そんなもやもやが永遠に続くなどなんと恐ろしい。

昇進せねば!

しかしまあ、こんな具合ですから、このコンペに応募しよう!と決めてもその後忘れ、期限切れなど日常茶飯事。何せ描くのはもちろん文章を書くにも助走が長いから。

 

 

それでも、未来とか手の届かないものとかの想像力に関してはプロです。

 

2020.4.13

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2019年9月7日現在

私が制作するのに欠かせないものは『音楽』です。

その日の気分に合わせて、聞きたいだけ音楽のシャワーを浴びると、だんだんその日の

自分の調子がわかり、それを踏まえて気分を高まらせ、制作に向き合うのです。そして肉体と精神が整うと、音楽はラジオに切り替え、描くモードに入ります。

但し、すぐに描けるわけではありませんが、。

去年の秋、いつものようにラジオを聴きながら制作準備にかかっているとその番組にゲストで来ていたアイルランド人のお薦め曲がかかりました。

なんと、マーラーの"アダージェット"、私の中でイントロのハープの音と、アイルランドのハープが重なり、がっちり何かがしっくり納まりました。

ちなみにそのアイルランド人は音楽家ではなく、ただお薦めでこの曲を選んだまで。別にアイルランドを紹介していたわけでもハープを紹介したわけでもありませんが

曲を聞いたとたん、私の頭の中はハープ一色。

後日、私は教室を探すことにしました。音楽としては子供の頃3年程エレクトーンを習っていたのでさほど抵抗もなく、大人でも始めれるのなら何か楽器をやってみたい!

うすうす感じていたのはいつも好きな音楽のシャワーを聴いてその日のコンディションを整えるという作業もいつかきっと終わりが来る。

芸術家なら尚更もっと確実なものも準備しておかなければということ。もし、聞く→奏でることで自分を整えられたらもう鬼に金棒です。

スポーツ選手と違って文化的な作業は準備体操だけではわからない内面も調子を合わせなければならないからそれが自分にとって何なのかを知るのも大切なのです。

また弾いている間は無になれます。私にとって何も頭に残さず、真っ白な状態で作品を描くというのが最も大切な事なので準備体操としては最適なのです。

そして早速習い始め

今日はリラックスしながら弾くということが大切と習いました。

簡単な事ですが、私にとってリラックス、肩の力を抜く、といったことがどんなに難しかったことかと実感。

なんだか人生を語られているような気がしました。

 

夕暮れ時、マンションの明かりが点き出した頃、何もせず音もなく椅子にすわってただただぼーっとしてみました。

きっと自分の中で何かが引っかかっているはずと。

すると、忙しさと描きたい気持から妥協で買った画布の色が気に食わなかったことや、

テレビを見なくなった生活からテレビ無しでは生きて行けない程の自分に変貌していた事。

私はそんな自分の声をないがしろにしていたと気づきました。何も上手く行くわけがありません。

ありのままの自分が悲鳴をあげていました。ハープに導かれた気がします。

まだ曲としては何一つ出来ませんが、いつか好きな曲をハープでさらっと弾き、制作に入れる日がくればなと思っています。

私にとって欠かせないものになりそうです。

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暗い街を明るくしてくれるクリスマスシーズンが好きです。

クリスマスツリーは芸術品です。

『人類は芸術なしでは生きられない』

個人的な感情かも知れませんが、この世に芸術なくしては闇です。

普段芸術に興味がない人でも芸術はそこかしこに存在しており、恩恵を受けている。

 

ところで、さっき、年末恒例、来年のスケジュールを埋めました。

私の結構好きな作業です。

来年はこれをしよう、あれをしようと思いを巡らせますが、

現実的でない事も半分くらいあるのでなかなか進みませんでした。

それだけやりたいことがあるならそれはそれでいいだろうとちょっと客観的に自分を見つめていたりします。

今年1年、どんな年だったかと言うと、あまり制作の出来ない1年でした。

この点に於いては非常に不満の溜まるところですが、仕方がない。

来年はその回収に勤しみます。その現実を見逃さない為にも客観的に、計画を組んでいます。

未来に向かって放射線を引く。この方法で引き続き来年を計画しようと思います。

来年私がどうしてもやりたいのは立体です。もう何年も言い続けていますが、来年こそ有言実行と行きたいものです。

でもこうやってあれこれやりたい事を巡らすのが目標の醍醐味かも知れませんね。

まだ実行とは行っていなくとも既にこんなに楽しいのですから。

予定を立てる=理想を空想する  ですからね。赤毛のアン心理でしょうか?

既に半分楽しんでいます。

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2017年が始まりました。

私は今年の目標を"結構無理する"と設定しています。今まではどちらかというと”やりたくない” ”ゆっくり” ”自分の理想追求” 

というくらいの値の設定でしたが、なぜか去年の暮れ、来年は無理してやってみようと思いました。

きっとこれまでのアカが落ちたのでしょう。長い休息期間が終了し、新たな世界へ足を踏み入れる準備が出来たのかも知れません。

 

年末年始は実家の大阪でゆっくり過ごしました。なんとなく普通の時間を過ごしていたのですが、なんと、実家に着いた途端に疲れが出ました。何とも言えないぐったり感。東京では何もない普通の時間を過ごしているつもりでも常に緊張しながら過ごしていたのかも知れません。それから3日間くらいはグダグダでした。それから徐々に元気になったのですが、今度は両親の温かさや家のぬくもりに事ある毎に涙が溢れるようになりました。どこからともなく溢れ出す涙はテレビを見ていても何をしていても感情に触れた途端に溢れ出すのでそれを隠すのが大変でした。

東京帰ってくる時はもう嫌で嫌で。どうにかしてここに帰って来れないものかという思いにふける程でした。それから毎日が寂しくて、身内の事を思い出しては泣いて、果ては友達のご両親に会っただけでも涙が溢れました。こんな経験したことありません。友達に話すと無理し過ぎだって言われました。自分では一切覚えがありません。

こんな思いをするぐらいならもう実家に帰りたくないと思いました。

今年の目標が無理する事。からのこの現実。

幾つになっても私は己を知らないのだなあと改めて感じました。年末にはどんな自分がいるのでしょうか?

少しは自分の内面に追いついているでしょうか?ただ、自分の作品には私が映し出される。あからさまに。

どんなときも私は自分の作品に先行されて生きている。

決して追いつく事の出来ない未知なる自己。私の中にはまだ矛盾がある。

これを平坦にしなければ、、、。

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2017.Jan

 

 

 

 

 

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2015年10月、私はUNKNOWN ASIA に参加、台湾人CDデザイナーのQing-Yang Xiao賞を頂きました。

その日の帰宅時、車に乗り込み、エンジンをかけると同時にカーラジオから流れて来た音楽は

C.Richardの”Congratulations"でした。

信じられない気持ちになりました。誰もが知っている曲にしてもあまりここからは流れない。

しかもエンジンをかけた途端、丁度あのイントロが流れた。

予期せぬ祝賀モードになり、1人でノリノリ、自分で自分を祝ったのでした。

私は人生はこんなものだと思っています。

自分の内面と行動が合致した時に与えられるものに感謝しながら生きて行くだけ。

どんなに苦しい事があろうと、未来を見据えて生きて行く。

 

普段の私はラジオを聴きながら制作をするのですが、気分のいい日はおのずと好きな曲が流れる。正に周りのものとの調和を感じます。

私の作品は抽象画でありながら独自の”形”を保有しています。それは芸術を知っている人のみならず、そうでない人に作品を通して何かを伝える時にその的を明確に絞っ

て伝えることが出来るからです。ぼやけた状態になると物事の神髄が見えてこない。特に私は物事の本質を現す事を基盤にしている為、これは非常に大切にしていることです。

物事を見極める時にその物を目で見た情報だけで捉えるのではなく、目に見えない、感じる事から派生したものでなければ、本来の意味を汲み取れないからです。

アート作品をどのようなアプローチで受け入れるのかは人それぞれですが、私は作家自身が伝えたいことがあっての作品と思っています。世の中を変えたいとは思いませんが魂を目覚めさせる手助けになるものを発信したいと思っています。ひとりひとりが自分の得意分野で他人を感動させ、魂を揺さぶると、次のいい結果に繋がる。お互いが影響し合ってもっともっと意識が改革して行けるなら、それは本来の存在意義ではないかと思っています。

もうひとつ、私は紛れもないアートラバーです。芸術が好きで、好きでしょうがない。だからとてもシビアに見ているし、アートに未来を見出している。

自分ではただ好きでまるでガラスを取り扱うように接して来たアート。でも松陰浩之さんとご一緒させて頂いた時に私のある発言から「アートをとてもリスペクトしてるんだね」と言われ、はっとしました。リスペクトとは思いもしなかった。好き→大切→敬意というピラミッドがそこには存在していた。

アートに教えられたリスペクト。

私はこれからもひとつひとつ大切に作品を作ります。アートが私の未来の全てです。

 

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